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三沢光晴の死から考えたこと。

今朝、日刊スポーツの一面は「三沢死亡」の記事だった。普段プロレスを見ない私の母親が驚いていたのを見て、改めて事の大きさを感じる。

2ちゃんを見たら、今回の事故は「過激さを増したがゆえの事故」という意見があった。
昔だったら決め技になるほどの破壊力のある技が繋ぎ技の一つになって、より過激な(=危険な)技が決め技になる、なんてのは確かによくある話なのだろう。

これってプロレスに限った話ではないと思う。
今回のように死に繋がるほどのことではないとしても、「ファンが望むから」という名目の下、過激さを増したり選手に無理を強いてパフォーマンスを落とさせたりなんてことはいくらでもある話。
例えば競馬では「レコードが出るような高速馬場での競馬を行わせる」ために路盤を固めて、結果は故障馬が続出なんて時期があった。
サッカーなら「露出を増やす・経験を積ませる」ために公式戦を増やしたら、蓄積疲労でパフォーマンスが落ちた、なんてのもあるだろう。
これでは本末転倒なわけで、選手達を守り、質の高いプレーを見せてもらうためにはどこかで「過激さや無理強い」に歯止めをかけなくてはならない。

でもその歯止めを主催者側でできればいいが、ファン離れを恐れてできない、ということもある。
そういう時に「このままではヤバイのでは?」と感じたらファンの方で声を上げるしかないだろう。
今はネットのおかげで意見を上げやすい環境ではある。自分のブログで意見を書くとか、影響力のありそうな人のブログにコメントしてみるとか、いろいろ手はあると思う。
自分の好きなものに対し、それを長く楽しむためにどうすればいいのか考え、現状がその考えにそぐわないものであれば声を上げる。
そういうことも“時として”必要なのではないか(いつもやってたらクレーマーである)。
三沢の死からそんなことを考えました。

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