備忘録(その2)。
1月12日以降は、病院へ足を運ぶ回数が減った。
意識の回復の見込みが薄い状態で、母の姿を見るのが辛かったからである。
実際、ベッドで寝ている母の顔を見て、何度も涙を流した。
あと、手をさすったりつねったりすると反射的な反応があるのも辛かった。「もしかしたら何かのきっかけで目が覚めるのでは・・・」と思いつつ、実際には何も起きない。そういう状態に耐えられなかった。
しかし、父は毎日3回必ず病院へ足を運んでいた。
着替えや看護師さんに頼まれたものを持って行くからというのもあるが、本当に献身的だった。
その後は、よくも悪くも進展無く月日が流れた。
ただ、当たり前の話だがガンの治療は止めたので、確実に最期の日は近付いているのだろうとは思っていた。
そして3月下旬になり、腹水を2リットル抜くなんてことを経て迎えた3月28日。
父から「尿が出なくなってきて、今夜あたりが山かもしれない」と言われた。
その夜に病院に行くと、確かに尿は出ていないし、血圧などの数値も低い状態だった。尿毒症のような状態だったのだろう。
ただ、その時点ではまだ“最期の時”とまではいかないようだったので、帰宅した。
しかし翌朝、6時過ぎに父から電話があり「病院から『すぐ来て欲しい』と連絡があった」と言われた。
ダッシュで病室に向かうと、父はまだ着いておらず、病室で母と2人きりになった。
もう、これが2人きりでいられる最後の時間だと思った。
母の手を握り、「母さん、ありがとう。本当にありがとう。」と言った。
涙が止まらなかった。
でも、ちゃんと言うことができた。
今まで母への感謝の気持ちを言えなかったことを気にしていたのだが、最後にようやく言うことができた。もちろん、母の意識があるうちに言えればよかったのだけど・・・。
その後は父と兄が着いて、家族が揃った。
私は病室を離れて会社に「今日は休みます」と電話して(1月の時点で母がこういう状態であるとは言っていた)、病室に戻ろうとしたら看護師さんに「急いで戻って下さい」と言われた。
慌てて戻ると、すぐに主治医の先生も病室に来た。
数分して、心拍数や血圧が低下し、先生が我々に語りかけた。
「ご臨終です。」
こうして、母の生涯は幕を閉じた。
私が死に目に会えるように、電話から戻ってくるのを待ってくれていたのかもしれない。
最期までしっかりした母だったと思う。
| 固定リンク
「自分の話」カテゴリの記事
- ワイヤレスイヤホン。(2024.09.17)
- 朝顔。(2024.09.09)
- クイックスタート。(2024.09.05)
- 上司の病気の話。(2024.09.03)
- ウソ。(2024.09.02)
コメント